峰嶋くじらのプロフィール

プロフィール

以前のブログに俺氏のプロフィールを書いてた。

健康系の記事が多めなので、信用力を増すために書いたと思う。

よっしゃ、それをアップして信用力を獲得しようではないか(爆)

もう、占い師、精神世界系の俺に信用力なるものがあるわけないのだが。

2年前に書いたものを基本はそのまま掲載。

峰嶋くじらのプロフィール

私はずっと、自立することを考えて生きてきました。(←高次思考センターの獲得を目指す独り立つスターピープル)

自分で人生を切り開き、自己決定し、自分で責任を引き受ける。

うまくいくのも、いかないのもその人の努力次第。タピオカ屋を経営してましたので、自分は社長だ、お金ちょっとは持ってるぞ、すごいだろ!と思ってました。

しかし最近はその考えが変わってきました。

バイトの子がいてお店がきちんと廻っていました。みんなが社長になったら、バイトの子はいなくなるのです。

泥棒がいるから、警察も存在できるように、片方を除いてしまったら、もう一方も存在できなくなります。

腸内細菌でも、免疫力が落ちると悪さをするピロリ菌がいますが、実際薬で排除すると副作用がでることがあります。またよく調べてみると、食欲を抑える働きがあることもわかったのです。

こいつ悪いそうだな、嫌いだなと思っても排除するのではなく、なんとなく認めてあげて、私の片隅に置いておいてあげる。

自分と違う生き方でも、否定せずに、認めてあげる。つながっておく。

困ったときには助けてあげる、助けてもらう。

とんがって自立するのではなく、ゆるく他者の存在に気づきながら共に生きたいです。

小~大学生までの学生時代

1980年 熊本の田舎に生まれる。

田舎で小、中学とサッカー小僧。

特に何かあるわけでもなく普通に、いや人づきあいが苦手なので普通以下の大学生活を熊本で送る。

身長156cmの大きな背中の女の子事件

大学3年のころのバイト先に、身長156cmぐらいの女の子がいました。

その子が今度ワーキングホリデーに行くというので、私も空港まで見送りに行く。

出発ゲートをくぐる前、彼女は友達との別れを惜しんで泣いていたが、いざ出発の時間となり、行くと決心したら、くるっと振り向き1度もこちらを振り返ることなく旅立ってしまった。

衝撃だった、彼女の背中でけぇ。

このとき初めて人生が1回しかないことに気づき、徐々に人生のレールを踏み外していく。

単純バカな私は、俺も海外に行けば、何か人生変わるんじゃないかと思い、大学でみんなが就活や大学院に進学するなか、バイト三昧の生活をして、旅費をコツコツ貯める。

カナダワーホリ時代~悟り編~

22才、大学卒業後すぐにカナダのモントリオールにワーホリに行きます。

運よく、でっかい女の子の背中を拝めたが、当時の性格は相変わらずいい方ではない。というか今だに人付き合いは苦手です。(←39歳で未だにニート)

そんな奴でも海外に行けば、勝手に何かが変化して、人生をエンジョイできると思っていたが、そう現実は甘くなかった。

なぜエンジョイできないんだろう?なぜ友達ができないんだろう?なぜだろう。(←なんかここ今気分が違うな。友達っているか?スタピの感情のつながり方は型共鳴なので、人に会う必要はないと思う)

ここでふと私は一つの悟りを開きます。

そうだ、俺の性格が悪いんだ。

この時から、相手が悪いから、相手がつまらないから、私と友達にならないのではなく、私に原因があるので、うまくいかない。

つまり私を変えるしかないことに気づきました。

23歳にして、初めて気づく。なんて天才でしょうか、、、

カナダワーホリ時代~ヴィクトリア編~

相変わらずカナダでもエンジョイライフを謳歌できてない私ですが、衝撃の出会いがまた訪れました。

英語がまったく話せない私は語学学校に通います。

そこでヴィクトリアというおばちゃんに出会います。

彼女はベネズエラ人で60歳ぐらいです。授業中、生徒によくキレます。なので彼女を好きにはなれないが、ところどころに出てくる話のスケールがでかい。

若い時、スペインの桜並木の中を歩いた景色は素敵だったわー、ホニャらら言ってます。

で、よく聞くと、彼女がこの学校の経営者。

ベネズエラ人のばあちゃんが、スペインの桜並木を歩いてて、今はなぜかカナダのモントリーオルで自分で学校を経営している。

性格は良くないが、この人すごいじゃん!!

ヴィクトリアの生きていく力、上には上がいることと自分のヘタレさに気づき、大学生になって全然やらなくなった勉強、努力してすごい大人になるんだと決心しました。

フリーターと半年間の正社員時代

23歳から千葉でフリーターです。カナダには9ヶ月滞在しました。

ヴィクトリア、尊敬できる大人に会って、勉強しようと決心した私は23年間生きてきて漫画か週刊少年ジャンプしか買ったことがない私は、本屋さんに出かけました。

そしてそこに1冊の本が。「ユダヤ人大富豪の教え/本田 健

単純バカはまた炸裂です。友達の海外見送りに行って、自分も海外に行く。

この本の内容を「自分の考え方がすべてを決める」「金持ちになるには、自分で商売をしないといけない」と認識した私は、俺も社長になると決心しました。

社長になることを決心したもの、どうやっていいか分からず、毎日本を読んではバイトの生活。

千葉に住んでいましたが、バイトを辞め、25歳で熊本に帰ったのをきっかけに、初めて正社員として広告代理店で働き始めました。

本を読み始めて2年ぐらい経過しているので、知識だけは自信がある。社長になる男なので、うまくいくはず。

しかし結果はでない、営業ができない。

自意識過剰のヘタレであることがまた判明し、半年で退社してしまいました。

タピオカ屋時代~天職編~

26歳です。ニートになった私ですが、高校時代の知人が熊本でタピオカ屋を開業。

手伝うことになり半年ほど過ぎたころ、社長になりたい私の意向を知ってか、「九州は俺がやるけん、四国だったらやってもらって構わないよ」の一言。

四国の松山で、最初は移動販売でタピオカ屋を開始。

広告代理店時代は営業はヘタレでしたが、タピオカ屋時代の接客は違いました。

今でも人付き合いは苦手ですが、食うか死ぬかの真剣勝負です。

少しづつお客さんが来て自分が作ったジュースを、うまいと言って飲んでくれる。そしてお金も貰える。

そして真剣だからこそ色んなアイデアが生まれ、お客さんをもてなす、楽しませようとしました。

お客さんが笑うと、自分も楽しい。自分も楽しいから、お客さんも楽しくなる。

この楽しい楽しいスパイラルの結果、当時300名ぐらいのお客さんの名前を覚えて、タピオカ屋は俺の天職だと思いました。(←ホロスコープを見るとタピオカ屋は天職ではない。占い、精神世界系の方が天職感はある、太陽12ハウス)

タピオカ屋時代~お金と3.11編~

売上は順調に伸びていき、2年目には小さな店舗を、最終的には激安の殿堂ドンキ・ホーテ内にも店舗を構えるようになりました。

そうなるとバイトの子を雇い、私が店舗に入る時間はどんどん減ってきます。

店舗に入る時間が少ないと、常連のお客さんとも疎遠になっていく。

あれだけ楽しかった仕事も、ただジュースを作るだけの機械的な作業になっていきました。

また給料をバイトの子に払い、家賃もバカになりませんから、それを維持しないといけないという感情を持ち始める。

この頃からお店を楽しむのではなく管理するようになっていき、情熱も失ってきます。

以前はお金が大好きでしたから、お金のために毎日タピオカ屋を回していました。

タピオカ屋はお金を生むただの道具になっていったのです。

そして30歳のとき、3.11の震災が発生しました。

お店に入っていたので、どんな状況か知りませんでしたが、深夜家に帰りtwitter、TVをつけました。

すべてが飲み込まれていました。

商業施設内にあるタピオカ屋は、簡単に休日にできないので年中無休です。

しかしそんな私が作ったタピオカ屋も、何かあれば一瞬で消えるんだと強く思いました。

このときから私の価値観が崩れ始めます。

もう仕事だけ、ただお金を得るだけの毎日はやりたくない。

お金、モノ以外の他のコトを探さなくては。

タピオカ屋を辞めると決心したのは、震災が原因の1つ。

あと1つはやる気がまったく起きなくなってしまったことです。

起きても行く気がない、接客もやる気がない。どうやってもやる気がでないのです。

ここで私は「これは運命の流れだ。そうだ占いを勉強してみよう」と思い、見えない世界の勉強を始めることになります。

どうやってもやる気がでないタピオカ屋ですが、あることをきっかけにやる気でるようになりました。

それは、タピオカ屋を辞めると決めることでした。

辞めると決めることが、やる気を出す秘訣?

変な話かもしれませんが、実際そうでした。

今まで私を支えてくれたタピオカ屋を維持しなければならない、という思いを手放し、フラットな状態で見つめ直せたことで、初心に戻り、楽しめるようになりました。

そして震災後約1年でタピオカ屋2店を閉店し、ニート時代の到来です。

32歳 ニート時代と起業編

32才でニートになった私は本当に何もしませんでした。クズ人間と言っていいです。

人とも合わず、本を読んで、ランニングする。

これ以外やった記憶がほとんどないです。

1年ぐらい経った頃、アイソレーションタンクというあやしい機械を知ります。

人が水の上に浮き、無重力状態の究極のリラックスを得られるという機械で、私はこれだと思いました。

徐々に蓄えが減っていく中、何かでお金を稼がなくてはいけません。

この機械は酸素カプセルみたいなもので、お客さんが来店し、私は受付をする。

お客さんは勝手に機械でリラックス。

その間、私は好きな読書ができる。なんて素晴らしい商売なんだ。

この商売こそ私が求めていたものだ。

ヒーリングサロン、いざオープンです。

しかし誰もお客が来ません。。。

この機械を買ってお店を作り資金が底を突いたので、バイト生活の始まりです。

バイトから下請け自営業へ

そしてバイトしていて知り合った人から、給湯器の修理の仕事を紹介されした。

下請けの自営業です。給料は保険とかないですが、通常より多かったです。

給湯器修理はお金が良く、一方ヒーリングサロンは、お客も来ないし機械が壊れた。なので閉店。

修理の仕事は、最初は見習いです。半年ほどである程度仕組みを理解し、一人前として働き始めました。

そして一人前になって初めて気づいてしまいました。この仕事は休みがない。

給湯器の修理、つまりお客さんはお湯が出ないので、早く治して欲しい。そして冬はストーブなども修理も重なるので、件数が増えます。

稼げるけど、休みがない。これではタピオカ屋と同じではないか。

稼がせてもらっている、お世話になっているので、繁忙期の冬を2回乗り切り、今はゆるくお付き合い程度にお手伝いをしています。(←て、注文を付けすぎて今はまったく仕事が廻ってこない(爆)やばいー、貯金ないー、死ぬー、助けてくれー、働くか、、、。)

終わりです。