なにか淋しい感覚が昨日からあるんですが。
これ自分の感情じゃない気がするんですが原因はわかりません。
この前の日曜だったかBSで小田和正さんのライブをやってて、小田さんの純粋な少年、天使感に癒された。
前々回記事の「夢や水晶で情報をえるために、月輪観や七田式で右脳を開発する」で右脳訓練のために色紙の補色訓練やってると書きましたが、その経過と気づきなどを。
目次
補色訓練はオーラ視、水晶透視の第一歩として、脳を壊す効果がある
補色訓練とは、色紙を20秒見つめて目をつぶったり、壁を見ると、そこに色の残像が映るものです。
残像が見える理由はたんに目の疲れだそうですが、やっていくと「これ脳が壊れていくんじゃ」という感覚が出てきました。
オーラ視訓練にも入れられる補色訓練
オーラ視訓練をやる場合も、この色紙訓練はやるみたいなのでそれほどポピュラーでとっつきやすい訓練法なのでしょう。
脳内で色を再現する場合はあまり思ってなかったんですが、補色を壁でずっと見ていると違和感が満載になってきます。
だって壁に、そこだけに色が浮いているんです。
ふつうは何かしらのモノに色があって、そのモノと色は完全一致しています。
しかし補色訓練をやると、何もない壁に色だけずっと浮いているので、モノと色の関係、事物と色の関係が成り立ってないので、いままでの物質が何て固くて変化しないんだ、退屈なつまらないもの感が脳内で増してきます。
水晶透視より、フィードバックがある補色訓練はやりやすい
水晶透視も時々練習してましたが、水晶透視は飽きやすいです。
なぜかというと何の手応え、フィードバックがないから。
最高の拷問が毎日同じ場所で穴を掘って埋めて、穴を掘って埋めての繰り返しと聞いたことがありますが、それくらいやることに意味を見いだせないと人間は辛い。
水晶透視はやったもやっても、うんともすんとも言わない時があるので穴掘りに似てますが、補色訓練は壁に色が見えるのでそれだけでやりやすいです。
補色訓練をやっていると、久々に水晶も見ようかなという気になってきました。
夢の奇想天外さ、感情爆裂の楽しさと夢の記憶法
私は引きこもりなので、誰とも話さず1日終了という日が多々あります。
こうなると感情が動くときは音楽を聴くかテレビを見るか、本読むかになります。
夢の、神話のような奇想天外さ、感情爆裂の楽しさ
本は小説系でなく理論的な本が多いので感情は動かず、音楽はクラシックで感動するときがありますが、ピンチとかヤベェ、やっちまったとかの感情を味わうことはありません。
しかし夢の中だと「俺もいっしょに海外行くわ。げっ、そういえばもうパスポートの有効期限が切れてたーー。がーーーーん」となり、そういえばあそこに行けば即パスポート再発行じゃんとかなって何とか問題を解決しようとします。
この夢の中の感情の起伏感と現実を比べると、明らかに夢の方がスリリング。そして夢の方が明らかに奇想天外、予想外のことが起きすぎる。
そこでうんこ漏らすの的な身も蓋もない、突拍子もないことの連続がある。
「事実は小説よりも奇なり」という言葉がありますが、「夢は事実よりも奇なり」なのです。
これって神話でホトを箸で突いて死んだとか、体が腐ってウジがわいてたとかレベルに相応するものがある。
これに比べて現実の物質世界は全然動かねぇし、何ともつまんないなーと思ったりするようになってきた。(←本記事2回目)
まあ夢はエーテル体以上の世界ですからね。
夢を覚えていると意図する、あとは身体調節
幼少のころはよく夢を見ていた記憶がありますが、大人になったらほとんど夢は見ない人になりました。
2年前ぐらいから夢日記が有効だと思いつけまじめましたが、夢を記憶する方法としてやったことは、
●寝る前に、夢を思い出す。覚えていると意図する
●起きたら、身体を動かさず夢を思い出す努力をする
●夢のテーマ、問いたいことを決めて眠る
身体は本当に動かしたらダメです。まったく夢を覚えていなくても、じっと動かず、夢、夢、今夜の夢はと思い出す努力をすると、ポロっと夢が出てくることもあるので掘り返すことが大切ではないでしょうか。
それと身体調節。
松村先生は夢を受信するのは頭蓋骨調節が必要と仰ってまして、それは私も「軽い体を手に入れた約2年に及ぶ身体調節の過程~フォームローラーから断食、仙骨調整、アディオイフ、クンダリニー覚醒まで~」で書いてように2年ぐらいというか今も頭蓋骨が動いているので、というか何故わかるかと言えばそれだけ歪みが酷かったということなので、頭蓋骨、背骨を調節すると夢の内容が変わってきたり、夢を見やすくなるのは事実です。
主客と自我の置き場所
この記事で何が言いたいかというと、残像訓練を壁でやると象徴と事物の関係が崩れるので有用ではないかということです。
傘を傘としてより、傘をバット、ゴルフクラブ、杖などと見れた方がという意味です。
象徴を固定する人、レッテルを固定的に貼って変更できない人は気持ち悪い。
最後に主客と自我の置き場所をFBで先生とやったことがあったので。


天地開闢で造化の三神が生まれたあと、
宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)
天之常立神
国之常立神
が生まれていますが、天と地にイザナギが生まれる前にアシカビが生まれています。
アシカビは葦の芽とされていますが、葦だけでは地上が枯葉で埋もれてしますのでカビが必要で、カビが枯葉を天と地に昇華させます。
つまり根源的変化はカビが起こすので、変化したいなら自我を手放さないといけないのではないかと。まあそれは第7図のあとの話になってますが。
最初は自我の拡大を述べてて、それと相変わらずの菌好き。
菌に興味があるのと、松村先生が素粒子に興味があるのはまあ同系でしょう。
蛇はしっぽを噛まなければいけない。



影に追いやった自分の回収…
だと、単純過ぎですかね?

それができるには、まずは主体と客体の二極化が消えていく無が必要。そこにいかないことには、主体は自分の身体から外にはずらせない。
昔の日本人はそれを平気でしていた。あまりにもひどいので、身体の中にじっとしているという修行法ができた。
影は外に連れ出す最初の案内者。
エーテル体は身体の外にあるので、エーテル体に自我を置くこと、すなわち外に自分の主体を置くことになる
自我を外における人は、他人の気持ちもいちおわかるので、それだけで攻撃力、つまり排他力が弱まりますね。
あとタロット11の力関係です。
物質界、エーテル界、アストラル界、メンタル界のそれぞれの間に無があり、ひとつずつ、それを乗り越えるのに非二元にならなくてはいけない。